2011年2月17日木曜日

2 立憲主義

(1)立憲主義の展開
(a)近代以前
古典・古代ギリシャにおいて、すでに、政治権力をいくつかに分割し、それらの相互的な牽制によって権力の濫用を防止しようとする様々な試みがなされており、これらを古典的立憲主義と呼ぶことができる。しかし、古典的立憲主義は、中世における封建体制下において、また近代絶対主義国家における君主の圧倒的な支配の前に後退を余儀なくされた。
(b)市民革命期
市民階級の経済活動面における絶対君主制に対する不満と共に、ルネッサンス運動期に熟成された個としての自覚を媒介とする個人の自由という基本観念のもとに、国民の・自由権利と、そのための権力の公正と行使のあり方を、正式な文書において確認するという考え方が産まれた。すなわち、近代市民革命は、国家に対して個人の自由の領域の存在を設定し、国家はかかる私的領域の確保のためにこそ存在理由があり、したがって国家の活動もそのような目的のためのものに限定されると捉えるところに本質を持ち、そのための具体的方策として憲法の意義が明確に自覚されたのである。
(c)自由国家の時代(19世紀)~近代立憲主義の確立過程
立憲主義の思想は、近代市民革命を経て、19世紀の「自由国家」の下、近代憲法に実体化された。
自由・平等な個人の競争を通じて調和が実現されると考えられ、個人の自由意思に基づく経済活動が広く容認されていた。
権力を独占する強大な国家は、経済的干渉も政治的干渉も行わずに、社会の最小限度の秩序の維持と治安の確保という警察的任務のみを行うものとされた(その意味で、自由国家・消極国家・夜警国家などと呼ばれる)。
その確率過程は各国によって違いがあるが、イギリス、フランスは議会中心主義に対してアメリカでは議会に対する不信から厳格な権力分立の形で確立して行った。他方、ドイツや日本では19世紀後半になり上からの近代化の一環として憲法が制定され外見的立憲主義が展開した。
(d)自由国家から社会国家へ~近代立憲主義の現代的危機と現代立憲主義
自由国家を支える自由放任の論理は、資本主義の高度化に伴って、大きな矛盾を露呈した。すなわち、カーの「新しい社会」はその矛盾を、
①世襲的な利益によって新しい支配階級が創出され、各個人が平等の条件で平等にスタートする社会という観念が崩壊したこと、
②自由競争が存在しなくなり、競争し合う個人の代わりに独占的グループが登場したこと、であると説いている。
その結果、貧富の差が著しくなり、憲法の保障する自由が、社会的経済的弱者にとっては、貧乏の自由・空腹の自由でしかなくなった。そこで、このような状況を克服するため、国家が、従来市民の自由にゆだねられていた市民生活の領域に一定の限度まで積極的に介入し、社会的・経済的弱者の救済に向けて努力しなければならなくなった。こうして、19世紀の自由国家は、国家的な干渉と計画とを必要とする社会国家(積極国家ないし福祉国家とも呼ばれる)へと変貌することになり、行政権の役割が飛躍的に増大した。ドイツのワイマール憲法(1919年)はこの状況に対応して社会権を保障した最初の憲法であったが、社会矛盾の解決には不十分であった。そこでドイツは議会制の機能不全、社会的弱者の不満からナチズムの台頭を許してしまった。ドイツや日本における全体主義の台頭は近代立憲主義の現代的危機であった。ドイツや日本では近代立憲主義の思想的基盤が弱かったため全体主義を許してしまったと言えよう。なお、第二次大戦後の現代立憲主義の時代においては、各国とも社会国家、行政権の拡大により資本主義の矛盾を解決していった。また議会制の修復・維持が図れれている。

<社会国家・福祉国家>
社会国家(ドイツで用いられる)・福祉国家(イギリスで用いられる)の内容は必ずしも明確ではないが、およそ、国家が国民の福祉の増進を図ることを使命として、社会保障制度を整備し、完全雇用政策をはじめとする各種の経済政策を推進する国家である。



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