2011年2月20日日曜日

第2章 日本憲法史

2-1 明治憲法
1 特色
明治憲法は、立憲主義憲法とは言うものの、神権主義的な君主制の色彩が極めて強かった。
(1)万世一系の天皇による支配
(2)天皇大権中心の統治体系
(3)権利保護の不徹底

2 内容
(1)反民主的要素
(a)主権が天皇に存することを基本原理とし(1条)、その天皇の地位は天皇の祖先である神の意思に基づくとされた。
(b)天皇は、神の子孫として神格を有するとされた(3条)
(c)天皇は、立法・司法・行政など全ての国の作用を究極的に掌握し統括する権限を有するとされた(4条)
(d)皇室の事務に対する体験(天皇大権)のほか、栄典の授与に関する大権(特に軍の総帥に対する大権・11条)が一般国務から分離独立し、内閣・議会の関与が否定されていた。
(2)民主的要素
(a)権利・自由は保障されてはいた
しかし、それは人間が生まれながらにして持っている生来の自然権(人権)ではなく、天皇が臣民に恩恵として与えたもの(臣民権)であった。各権利は、「法律の留保」を伴うもの、つまり、「法律の範囲内」において保証されたにすぎなかった 。
(b)権力分立制は採用されてはいた
しかし、それぞれの機関は天皇の大権を翼賛する機関にすぎなかった(5条、55条、57条)
(c)法治主義の原則も採用されてはいた
しかし、それは形式的法治主義にとどまった
(d)議会は存在した
しかし、議会の権限は大きく制限されており(6条~9条、13条、14条、31条、66条~71条)、政府・軍部に対するコントロールの力は極めて弱く、また、公選に基づかない貴族院が衆議院と同等の権能を持っていた(例えば、38条~40条)
(e)大臣助言制が取られてはいた(55条)。しかし、内閣制度は憲法上の制度ではなく、特に、各国務大臣は天皇に対して責任を負うだけで、議会に対して責任は一切負わなかった。

(3)運用
明治憲法は、神権主義的な色彩の強い立憲君主制を基本としたものではあったが、自由主義的・立憲主義的な学説の影響や、政党の発達とともに、大正から昭和の初めにかけて「大正デモクラシー」が高揚し、政党政治が実現した。その結果、天皇制は、事実上、国務大臣の対議会責任に裏付けられた議会君主制として機能した。
しかし、その後、軍部の勢力が増大してファシズム化が進展して、天皇機関説事件などが起こり、明治憲法の立憲主義的側面は大きく後退した。



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